マイナー旅行記 みちのく編 最終話

 





「帰りはつらいよ、
なあ、寅次郎」

 







さて、この旅行記もクライマックス。


え? まだ奥入瀬にも行ってないやん?


とお思いになる方もいるであろう。


そう、結果から言うと、


奥入瀬には行けなかったのである。


なぜなら、それは……。


その話をこれからしなければなるまい。


 


さてさて、最後のお話は、


仙台で「悪夢のサイドミラーふっ飛ばし」をした翌朝から。


 


3日目、朝8:00。


最悪な気分で目覚めたボクは、


旅館の親父に車の修理ができる所を尋ねてみる。


幸いにも、すぐ近くに宮城日産があることが分かり、


車をそこへ持って行くことにした。


宮城日産で修理を依頼すると、


ミラー交換は可能だが午後2時までかかるということだった。


数時間は仙台に足止めをくらうことになるが、


何とか旅を続行できそうなので、いくらかは安堵できた。


チェックアウトの時間は10時だったが、


親切な親父の好意に甘え、2時まで応接間を借りることになった。


メジャーリーグの大魔神佐々木の登板試合を見ているうちに、


正午になったので、そのへんでメシでも食おうということになった。


地図を見ると、旅館のすぐそばに東北大学があるではないか。


そこの学食で食おうということになり、ひとまず旅館を出た。


夏休みということもあって東北大学は閑散としていたが、


こじんまりとした雰囲気のいいキャンパスである。


学食も明るくて清潔感がある。


そこでボクは「焼肉丼」を注文した。


焼肉丼? 


牛丼と言わず、なぜ焼肉丼と言うのだろう。


ナゾだと思いながら一口食べるとその疑問はあっけなく氷解した。


肉が豚肉だったのである。( 多分)


そら、牛丼と言うはずないわな。


かと言って、豚丼と言ってしまうのもいかがなものか、


といったところだろう。


妙に納得したような、丸めこまれたような、そんな気分になったが、


まあ、それなりに美味しくいただくことができた。


その後、2時にいよいよ旅館をチェックアウトし、


旅館の親父に別れを告げると、


ミラー交換の終わった車を取りに行き、


仙台を出ることになった。


 


午後3:00。


ボクらは再び東北自動車道に入り、北を目差す。


日が暮れるまでに次の宿を探さねばならない。


地図を見て、岩手県平泉で宿をとることに決めた。


平泉までは1時間ぐらいだったと思う。


平泉インターチェンジで高速を降り、


例の如く、駅を目差す。


しかしまあ、平泉という所は本当にのどかである。


いかにも東北の片田舎である。


奥州藤原氏や源義経のゆかりの地であり、


松尾芭蕉ゆかりの地でもある。


他にも有名無名の輩が、古来より訪れて止まない地である。


それにしては、あまりにのどかである。


源義経が弁慶とともに命を散らしたという衣川古戦場跡を、


直に見こそしなかったが、その近辺の青々とした風景はまざに、


“夏草や 兵どもが 夢の跡”


を偲ばせるものがある。


かつての藤原三代の栄華を引き継ぐような発展もなく、


そのまま風化したような、歴史に置き去られたような、


そんな風情の地である。


 


ここで、ボクらが選んだ宿は、


旅館という名がついているものの、


実質は、田舎の農家が2階を宿として提供している、


という感じの宿である。


山の方に観光ホテルがあったのだが、


そこでは土地の雰囲気も味わえまいと思い、


こちらの農家を選んだのである。


宿泊客がほとんどいないので、


農業がおそらく本業である。


地味と言えばこの上なく地味だが、


こんな宿に泊まるのも最初で最後、


なかなかオツではないか、


そんな気分だったのである。


 


ボクらは、日が暮れるまでの一刻を、


池のほとりでギターをかき鳴らして過ごし、


夜は焼肉(和牛が名産らしい)とビールで盛り上がり、


温泉に浸かるなどしてそれなりに楽しんだ。


この時のボクは旅の終焉がそこまで来ていることに、


全く気づくよしもなく、


明日こそ青森まで行くぞ、


という意気込みを吸いこむかのように、


平泉の夜は更けていったのである。


 


翌朝8:00。


起床したボクらは朝食もとらず、


宿を出発することにした。


出発間際、もんぺ姿の宿のおばあちゃんが、


親切にも、おにぎりを作って持たせてくれた。


都会育ちのボクは、こういうのに弱い。


街にはない人間の温かさに触れたというか、


昔の旅人の旅情を思い起こさせたというか、


そんな思いにとらわれて、


ちょっと目頭が熱くなったのを覚えている。


 


宿を後にしたボクらは、


中尊寺へ向かった。


奥州平泉と言えば、国宝、中尊寺金色堂である。


荘厳さと静寂をたたえた朝の中尊寺境内を散策した。


杉や檜の巨木がニョキニョキと生えていて、


歴史を感じずにはいられない。


また、早朝で人がほとんどいないので、


ことさら神秘的な雰囲気が漂っていた。


金色堂の拝観料800円と、


写真を撮りまくる挙動不審な外人には興ざめしたが、


その点を除けば、なかなか良い所だと思った。


 


いささか唐突ではあるが、


ボクらの旅はそこまでだった。


終わり方があまりに唐突だったのだから、


この稿も唐突な書き方で終わらざるを得ない。


 


その後、中尊寺を後にしたボクらは、


東北自動車道へ通ずる田舎の国道で、


10トントレーラーと衝突し、


車の後部を破損させてしまうのである。


あともう少し避けるのが遅れていたら、


運転席に50〜60キロで横から突っ込まれるところだった。


事故処理の後、車の応急処置を行い、


すぐに、大阪へ帰ることになった。


誰一人、怪我をしなかったことと、


エンジンが動いたことは、


不幸中の幸いだったと言える。


 


そして、帰り道はサンザンなものになった。


何故か、ずっと雨にたたられた上に、


車の破損部から水が浸入しないかとビクビクしながら、


2日かけて1000キロ余りを走るハメになったのである。


大阪に着いてからは、


友人を三田方面の家まで送り、その帰り道で迷った。


大雨の夜にボコボコの車で山道をさ迷う姿は、


さぞ、痛々しかったに違いない。



何か恨みでもあるんかい!



と、叫びたくなるほど激しい雨の中を右往左往し、



ガソリンスタンドや、滅多にいない通行人に道を訊いたりして、


泣きそうになりながら、やっと知っている道に出た時の気持ちは、


もう、筆舌に尽くし難い。


嬉しいやら、哀しいやら、情けないやら、申し訳ないやら、


しんどいやら、何やらもう、いろんな感情が混ぜこぜになって、


押寄せてきたのである。


そこから、さらに2時間かけて家に帰った。


走り慣れた道も、慎重に走った。


いつも120キロ以上で走るトンネルも50キロで走った。


駐車場に車を停め、エンジンを切った時、ため息をついてから、


ボクの口からは、意志に反してあの言いたくない言葉が洩れた。


 


「トホホ……。」


 


絞り出すような声だった。

 

 


END


 

付記:その後、事故の過失割合等で揉めることになり、

事は訴訟にまで発展し、先方、保険会社、弁護士など、

それぞれの立場からの思惑とカケヒキの行き交う中で、

   世間のイヤなキレイじゃない部分に触れ、

   かなりの金銭的ダメージとともに、

   精神的ダメージ(こっちの方が大きい)を受けたのでした。



執筆: 2000/11/13

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